桐生市の本町1丁目・2丁目付近は国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定されています。
この地域の歴史を紐解き、成り立ちをご紹介します。
桐生新町は、徳川家康の命により天正19年(1591年)より慶長11年(1606年)につくられました。
北端の天満宮を起点に、南北に幅約5間(約9メートル)の道(現在の本町通り)を造り、その両脇に間口6~7間(約12~14メートル)、奥行き40間(約80メートル)という短冊状の敷地割りが施され、近村からの入植者を募り住まわせるなど計画的なまちづくりが行われました。
桐生新町の範囲は、現在の本町一丁目から本町六丁目までと横山町を含む範囲で、桐生の町が造られた礎となった場所です。
桐生の織物の歴史は奈良時代頃にさかのぼりますが、町としては西の西陣に対抗して東に織物の拠点を作るために徳川家康公が整備したのが最初です。
関ヶ原の時は桐生で東軍の軍旗を作られたという文献が残っています。
幕府ご用達の織物の町を更に活気づけたのが近江商人たちです。
現在重伝建地区のシンボル的存在である有鄰館は隣にキリンビールの看板で古の風情を醸し出している矢野園の蔵でしたが、矢野園さんも元は近江商人です。
「売り手良し、買い手良し、世間良しの三方良し」の精神は今でも受け継がれており、彼らがスパイスとなって桐生新町は大いに栄えました。
向かい側にある三越はあの三越が桐生に織物の仕入れ部を置いたのが始まりだそうです。
桐生新町という名称は町が作られて間もない1682年頃から明治22年(1889年)まで用いられていました。
町村制が施行され、近隣の村と合併して桐生町となってからはこの地域は「桐生町大字桐生新町」となり、大正10年に大字名が桐生となった後、昭和4年(1929年)に本町(ほんちょう)となりました。
現在でも歴史的な街並みが残る本町一、二丁目を中心に「桐生新町」という呼び名が使われます。
当地区ではかつての街並みの保存運動を行っており、織都桐生にふさわしい、和装で写真を撮りたいレトロオシャレな街として人気上昇中です。